曹 操 孟 徳 (そうそう もうとく) 155年~220年


曹操 孟徳   沛国譙郡 (しょうぐん) の人。幼名は阿瞞(あまん)、また吉利(きつり)。
 父・曹嵩(そうすう)は、もともと夏侯一族であったが、宦官であった曹騰(そうとう・曹操の祖父)の養子となって曹氏を引き継いだ。夏侯惇は曹嵩の兄の子で、曹操の従兄弟にあたる。
 後に魏王となり、魏建国の礎を築いた。 身長7尺、目が細く髭が長かったという。


人  物


 幼時から遊蕩し、勉学は好まず、狩りや音楽を好み、権謀に長けていたらしい。汝南の人物鑑定士・許劭からは「治世の能臣、乱世の姦雄」と評された。



略  歴


 20歳のときに考廉(後漢時代の官吏登用制度)に推挙され、洛陽の北都尉(正しくは北部尉)に任ぜられて北門の警備を務める。高位の者に対しても厳しく法を適用し、その威名をとどろかせた。


 黄巾の乱が起こると、討伐軍を率いた。曲陽において皇甫嵩とともに張梁(張角の弟)を破り、その功によって済南の相に任ぜられた。188年、新たに設置された西園八校尉(帝の近衛軍)の一つである典軍校尉に任ぜられ、再び洛陽が任地となる。

 

 宮廷内の混乱に乗じて権力を掌握した董卓が暴政を敷くと、董卓の暗殺を企てるが失敗に終わる。これにより洛陽から逃走。陳留において義兵を募り、董卓討滅の偽りの詔を全国に発して反董卓連合軍を結成するが、諸将の足並みが揃わずに敗北した。董卓は洛陽を焼き、長安に遷都した。

 

 河内に引き上げると、再び暴れだした青州の黄巾賊残党を討ち、これを自分の兵に加えて兵力を増大させた。その後 兗 州に腰を落ち着け、多くの豪傑、謀臣を配下に加えた。

 

 父・曹嵩を自領に招くが、徐州通過中に太守・陶謙の配下によって一族皆殺しに遭う。これに激怒した曹操は、徐州へ殺到して10余りの城を攻略し、領民10万人を殺すという大虐殺を行った。この隙に、董卓の死後放浪していた呂布が 兗 州を占領してしまうが、1年数ヵ月後に奪回した。

 

 宮廷内の権力闘争によって混乱した長安から皇帝・劉協(献帝)が脱出して洛陽へ向かうと、直ちにこれを保護した。その後許昌へ遷都し、帝を擁立して大義名文を手中に収めることとなった。

 

 198年、下邳 の呂布を討つと、翌199年、華北を制圧して最大勢力となっていた袁紹と官渡でぶつかる。さらに翌200年、袁紹の兵糧を保管していた烏巣の砦を焼き、2年に及んだ官渡の戦いに勝利した。その後、数度の戦を経て袁紹やその子らが死ぬと、204年、華北を平定し最大勢力となった。

 

 208年、三公(太尉、司空、司徒)を廃し丞相となって荊州征伐の兵を起こすが、赤壁の戦いにおいて劉備と孫権の同盟軍に敗れた。211年、長子の曹丕を副丞相に任じ、潼関において馬超を破り、213年、魏公となった。215年、五斗米の教祖・張魯を破り、漢中を制圧する。

 

 216年、魏王に昇り、劉備と漢中を争ったが引き分け、劉備は漢中を制圧して漢中王となった。220年、病によってこの世を去る。66歳であった。

 

 死後、武王と諡され、曹丕が後漢の第13代皇帝・劉協から帝位を簒奪して魏帝となると、太祖武皇帝と諡された。

 

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