三国志のキホン

 魅力的な登場人物や大陸特有の圧倒的なスケールで多くの日本人の心を惹きつけて止まない三国志。逆境を耐え忍んで己の志を貫いた男たちの生き様は、苦しく困難な時代に生きる私たちを勇気づけてくれます。ここでは、そんな三国志の基本情報や大まかな流れをご紹介します。

三国志とは

  「三国志」とは、晋の陳寿(233-297)が著した「魏書」(30巻)、「蜀書」(15巻)、「呉書」(20巻)の総称のことで、正史の形式で書かれた歴史書である。
  皇帝の伝記や王朝に関わる出来事などを記した「本紀」と、王朝に関わりが深い人物の個別の伝記を列挙した「列伝」とを中心に構成された「紀伝体」という書式で書かれている。収録された伝記は「魏書」250名、「蜀書」86名、「呉書」132名、合計468名にのぼる。日本では「正史」と呼称されることが多い。
  卑弥呼のことを記したいわゆる「魏志・倭人伝」は、周辺異民族の紹介にあてられている「魏書」第30巻のなかの「東夷伝」に収められている。ただし、「倭人伝」という独立した列伝が立てられているわけではない。

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  一方、元末から明初の羅貫中(生没年不明)が著したとされる「三国志演義」は、三国時代を題材とした説話や講談などに基づいて創作された小説であり、架空の人物やエピソードが多数付け加えられている。
  「三国志演義」は、全体の出来事を年代順に記していく「編年体」で書かれている。中国では、陳寿の「三国志」と区別するために必ず「演義」を付ける。日本では「演義」と呼称されることが多い。

 日本における「三国志」関連作品では、吉川英治(1892-1962)が著した「三国志」が、他と一線を画する。吉川英治は、羅貫中の「三国志演義」を忠実に訳した湖南文山の「通俗三国志」独自のテイストを加味して、より物語としての完成度を高め、陳寿や羅貫中と並ぶ独自の「三国志」を作りあげた。日本で「三国志」といえば、この吉川英治の「三国志」を指している場合が少なくない。

三国志の大まかな流れ

 「三国志」は、中国の時代区分でいう「三国時代」の出来事や人物を題材としている。「三国時代」がいつからいつまでを指すのかには諸説あるが、「三国志演義」で語られるのは、184年に起こった「黄巾の乱」から280年の晋(西晋)による中国統一までのことである。

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 光武帝・劉秀が再興した(後漢)も、その末期には朝廷は腐敗し、第12代皇帝・劉宏(霊帝)をはじめ宦官や外戚は私利私欲に走り、政治を省みなかった。このため国は乱れ、重税や夫役に苦しめられた領民の間には、激しい怒りと不満が渦巻いていた。

 184年、民間宗教である「太平道」の教祖・張角は、腐敗した漢王室を打倒するために、数十万人の信徒を動員して反乱を起こし、民衆の怒りがこれに結集するかたちとなって中国全土に拡がった。「太平道」の信徒は目印として黄色い頭巾を頭に巻いていたので、この乱は「黄巾の乱」と呼ばれた。

 以後、政局は次第に混迷の度合いを深め、やがて覇権を巡って群雄が割拠することとなる。208年、江東の地にあって第2の勢力となっていた孫権と、流浪の小勢に過ぎなかった劉備の連合軍が「赤壁の戦い」において、その時すでに中国全土の三分の二を制していた曹操を破る。その後、劉備が蜀の地を得たことにより、魏、蜀、呉の三国が鼎立する形となった。

※この時点では、曹操が漢(後漢)の第14代皇帝・劉協(献帝)を擁立していたので、漢(後漢)という国家が依然として存続していた。したがって、魏、蜀、呉のいずれも、事実上は国家であったのだが、形式的には国家ではなかった。

 220年、父・曹操の跡を継いで魏王となった曹丕が、漢(後漢)の第14代皇帝・劉協(献帝)から帝位を簒奪し、を建国する。これにより漢(後漢)は滅亡した。221年、漢王朝の再興を目指していた漢中王・劉備は、漢(後漢)の滅亡を受けて新たに(蜀漢、蜀)を建国し、初代皇帝となった。

※劉備が興した「漢」は、混乱を避けるため便宜的に「蜀漢」または「蜀」と呼称される。同様に、劉邦が興した「漢」は「前漢」、劉秀が興した「漢」は「後漢」と呼称される。また、司馬炎が興した「晋」は「西晋」、司馬睿が興した「晋」は「東晋」と呼称される。

 江東にあった孫権は、曹丕が魏を建国し皇帝となると、これに臣下の礼をとり呉王に封ぜられる。しかし、蜀と呉の親和に激怒した曹丕が呉へ侵攻したことをきっかけに、222年、魏から独立してを建国し、229年に初代皇帝となる。これによって、中国に同時に3人の皇帝が並び立つこととなった。

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 263年、魏の大将軍・司馬昭の命により、鄧艾が蜀の首都である成都を陥落させると、蜀の第2代皇帝・劉禅は魏に降伏する。これによって蜀は滅んだ。265年、魏の晋王・司馬炎(司馬昭の長子)が第5代皇帝・曹奐から帝位を簒奪し(西晋)を建国すると、ここに魏も滅亡する。279年、晋(西晋)の初代皇帝・司馬炎は杜預を大都督に任じ、呉制圧の大軍を南下させる。翌280年、呉の第4代皇帝・孫皓が晋(西晋)に降伏。ここに呉は滅び、晋(西晋)が中国全土を統一した。



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