董 卓 仲 穎 (とうたく ちゅうえい) ?年~192年


 隴 西(ろうせい)郡 臨 洮 (りんとう)の人。洛陽から連れ出された幼い皇帝・劉弁を保護し、太師となって権力を振るった。



人  物


 強欲で残虐、暴政を敷き、軍人としての才にも乏しかった。洛陽から長安への遷都後、人民25万人を徴発して長安から20里余り離れた 郿 に城を築き、20年分の食糧と財宝、美女800人を蓄えたという。



略  歴


 黄巾の乱では、中郎将に任命されて鎮圧に向かうが、敗戦を重ねて皇甫嵩と交代させられる。黄巾賊の大将・張角と戦って一方的に破れたところを劉備に救われたともいう。しかし宦官に賄賂を贈って責任を逃れ、西涼太守の座も買い取った。


 大将軍・何進が全国の群雄に向けて発した宦官誅滅の偽勅を受け、大軍を率いて洛陽へ向かい、城外に布陣して成り行きを見守る。やがて宦官が何進を殺し、袁紹が宦官を大量虐殺すると、宦官によって城外へ連れ出された後漢第13代皇帝・劉弁とその兄である陳留王・劉協を保護し、宮廷の権力を掌握する。

 

 猛将・呂布を養子に迎え、軍事力を背景に宮廷を支配し、189年、幼い皇帝・劉弁を廃し弘農王に落として、兄の劉協を第14代皇帝に立て、自らは相国となって権力を振るった。後に難癖をつけて弘農王・劉弁を殺害させる。以後、暴政を敷いた。

 

 董卓暗殺に失敗し洛陽を脱出した曹操によって反董卓連合軍が結成され、袁紹がその盟主となると、洛陽にいた袁紹の一族を皆殺しにした。配下の将に5万の兵を与えて汜水関を守らせ、自らは15万の兵を従えて呂布らとともに虎牢関を固めた。やがて戦局が徐々に不利になってくると、戦時にもかかわらず長安への遷都を強行し、洛陽を焼いた。その際、民の財を没収し、王侯・貴族らの墳墓を暴いて財宝を奪い、兵には略奪、凌辱を許したという。

 

 司徒・王允が施した計略によって呂布との関係が悪化し、宮中に誘い出されて呂布に斬られた。

 

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