劉 禅 公 嗣 (りゅうぜん こうし) 207年~271年


 劉備の子で、母は甘夫人。幼名は阿斗(あと)。劉備の死後、蜀の皇帝となった。蜀は劉備と劉禅の2代で滅びたので、劉備は先主、劉禅は後主と呼ばれる。



人  物


 国家を統治できる器ではなかったらしく、父・劉備でさえ蜀の後事を託すことを危ぶんだ。後年、宦官を近づけてからは政治を顧みることなく酒色に耽り、ついには魏に降伏して蜀を滅ぼした。

 劉備諸葛亮、蜀の功臣たちを祀った成都の武侯祠には、当初は劉禅も祀られていたが、南宋の時代に「亡国の暗君」とされ廃祠された。



略  歴


 207年、劉備が劉表の客将として新野に駐屯していたときに生を受ける。曹操の荊州征伐によって、劉備の軍勢は10万人の新野の民とともに江夏へ逃走するが、当陽県長坂坡において曹操軍に追いつかれ、痛撃を受ける。このとき赤子だった劉禅は、劉備の夫人らとともに敵中はぐれてしまうが、単騎捜索に出ていた趙雲によって窮地を救われた。

 

 劉備が死期を悟り、永安宮に諸葛亮を呼び寄せた時、劉禅は同行せず成都で留守を守った。劉備の死後蜀の皇帝を継ぎ、諸葛亮を武郷公に封じ、劉備を恵陵に葬って昭烈皇帝と諡した。劉禅には皇后がいなかったので、群臣の勧めに従い張飛の娘を皇后に迎えた。

 

 蜀の建興5年(227年)、「出師の表」を奉って第一次北伐を願い出た諸葛亮の出兵を許し、北門から十里まで見送りに出た。馬謖の軍令違反によって魏に敗北した諸葛亮が自らの降格を願い出ると、これを聞き入れ丞相から右将軍におとした。

 

 翌年、漢中に駐屯していた諸葛亮から趙雲死去の知らせが届くと、長坂坡での恩に報いて大将軍の位を贈り、順平侯に封じた。諸葛亮が第二次北伐の準備を整えて「後出師の表」を奉ると、これを許して直ちに軍をおこすように命じる。

 

 宦官たちを近づけるようになると、「諸葛亮が自立を企てている」との流言を真に受けて、北伐中だった諸葛亮を成都に召還する。このとき諸葛亮に、佞臣に惑わされぬようにと諌められる。

 

 蜀の建興12年(234年)、諸葛亮は第五次北伐を開始するも司馬懿の持久戦に手こずり、五丈原に陣没する。諸葛亮の霊柩を城外20里まで出て迎えた劉禅は、忠武侯と諡し遺言に従って定軍山に埋葬した。

 

 その後、諸葛亮の遺志を受け継いだ姜維に度々北伐を許すも、ことごとく失敗する。このころから宦官の黄皓を信頼するようになり、酒色に耽り政治を顧みなくなる。

 

 魏が蜀討伐の軍をおこし、魏将・鄧艾が成都に迫ると、城外10里まで出て鄧艾を出迎え、降伏した。これによって蜀は滅んだ。

 

 洛陽に移送され、魏の事実上の支配者であった司馬昭によって安楽公に封ぜられると、271年に没するまで安楽に暮らした。

 

 

 

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