孫 堅 文 台 (そんけん ぶんだい) 156年~192年


 呉郡富春県の人。孫子の末裔を自称した。顔大きく、額は広く、虎のような体つきだったという。「江東の虎」と称された。

 孫策、孫権兄弟の父。最終役職は長沙太守。



略  歴


 17歳の時に海賊を討伐し、校尉(部隊長)に推挙された。会稽(かいけい)で反乱を起こした許昌、許韶(きょしょう)の親子を討ち、その功によって塩 瀆 県の丞(太守の補佐官)に任ぜられた。以後、各地の丞を歴任した。

 

 黄巾の乱が起こると、残党が立てこもる宛城を攻めていた朱儁と劉備に加勢して功績を上げ、朱儁の推挙によって別郡司馬に任ぜられた。その後、長沙太守に任じられて賊徒・区星(おうせい)を討ち、江夏一帯を平定して烏程侯となった。

 

 曹操の檄によって反董卓連合軍が結成されると、演義では、これに参加し汜水関攻略の先鋒を務めたが、孫堅の功を妬んだ袁術(袁紹の弟)が兵糧を移送しなかったために、汜水関の守将・華雄に敗れたとされる。

 

 正史では、魯陽で袁術と合流するが、このときすでに反董卓連合軍は解体されていたとされる。洛陽に向けて軍を進めた孫堅は、梁県付近で董卓の部将・徐栄と戦い敗れるが、軍を立て直して北上し、陽人県で胡軫と戦い、その都督であった華雄を斬ってこれを破った。さらに北進を続け、洛陽南方の大谷関で董卓と直接戦ってこれを破り、諸侯に先駆けて洛陽に入城した。

 

 正史、演義の何れも、洛陽への一番乗りを果たしたのは孫堅であるとする。

 

 建章殿の南の井戸から伝国の玉璽(皇帝の印)を発見し、いち早く洛陽から長沙へと帰還するが、これに気付いた袁紹が荊州刺史・劉表に帰途を襲わせた。

 

 これが原因で、劉表と敵対関係となり、開戦する。劉表の部将・黄祖との戦に勝利し黄祖を捕らえるが、劉表の謀臣・ 蒯 良の策に嵌まって戦死する。192年、37歳のことであった。

 

 このとき、孫策は17歳、孫権は10歳であった。

 

 遺体は黄祖の身柄と引き換えられ、曲阿に葬られた。

 

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